大正時代、鳥取の特産酒米として因幡地方で一二を争う程に生産され、突然世の中から姿を消した幻の酒造好適米「強力(ごうりき)」。
平成元年に復活を遂げた3年後の平成3年から鳥取県八頭郡八頭町にて、強力を作り続けている生産者の山﨑 保(やまさきたもつ)さん。現在85歳の山﨑さんには、強力にまつわる物語があります。
▲刈り取りが終わった強力の田んぼの前で、お話をしてくださる山﨑さん。強力の他にも田んぼで合鴨を泳がせて米を栽培する合鴨農法にも取り組まれておられます。
幼い頃、山﨑さんにとっての強力は馴染みのあるお米でした。というのも、山﨑さんの御祖母様が強力を育てていたのです。
「とにかくおいしいと言ってな、たくさんの農家が好んで作った」
御祖母様もその一人でした。
さらに、稲の背が高く丈夫だったことから藁が重宝されました。御祖母様も冬場は藁仕事として、むしろを編んだり、カマス(米を入れる袋)を作ったりしていたそうです。
▲刈り取った後に残された強力の藁。背が高く丈夫だった強力の藁は、昭和初期には大変重宝されました。
作りにくいからこそ、自分が作る
戦争が始まり食糧難の時代になると強力は、背が高く作りにくいことと、反当たりの収穫量の少なさ、大粒なため倒伏の危険があるということで、作りやすく大量に摂れる米にシフトされ、遂には途絶えてしまいました。
そこから35年以上の年月を経て、山﨑さんは強力を作る生産者となっています。
「最初、中川さん(中川酒造先代・中川盛雄さん)から声をかけられてな。頼むから強力を作ってくれんか、って言われて」と、楽しそうに語る山﨑さん。
作りにくい米を作るのにはご苦労が多いのでは、と尋ねると
「作りにくいからこそ意義があると思ってやっている。鳥取県の在来種で、戦前は鳥取県の奨励品種にまでなった米だから、作りにくいを自分らが作って、鳥取県に残したいんだよ」
と力強い言葉が返ってきました。
「強力は暴れ馬のような米ですね。ですが、農家さんも先人から受け継いだものを後世に残していくために、難しいけど俺が作りたいから作るという、気合のある方々に育まれているんです」
と中川さんもおっしゃいます。
▲(左)強力生産者の山﨑さんと(右)中川酒造の中川雄翔さん。
中川酒造でも、生産者さんたちのご苦労を十分理解し、農家さんと良好な関係を築くため、収穫量が減った年には負担金を増やしたり、毎年勉強会を行い農家さんの現状理解とさらに育んでいく取り組みを一緒に行っておられます。
▲中川酒造で使用される強力は日本酒の雑味の原因となる窒素肥料を削減、減農薬で栽培されています。低収量は覚悟の上、品質重視の米作りに取り組んでおられます。
これからをつなぐために、できること
そして、山﨑さんは最後にこんなことを語ってくださいました。
「前にな、鳥取に観光にきていた外国人4、5人の方が中川酒造の酒を指さしながらこう言っていたんだ。『このお酒は良いものだから買った方が良い』って。家内と二人でそれを聞いて、いいこと言ってくれるな、と嬉しかった。これからも中川さんにはいい酒を作ってどんどん売ってほしいんだよ。じゃないと、わしらも強力が作れないからね」
米を作る人、酒を作る人、酒を飲む人。
どの人が欠けても決しておいしい地酒はできないんですね。
中川酒造の「いなば鶴 純米きもと強力」は、私の好きな日本酒の1本ですが、今では、飲むと山﨑さんの田んぼの風景が目に浮かび、充足感に包まれます。
舌で味わうだけでなく、酒造りのルーツを知ことでこんなに心も満たされるんだと新たな喜びを知りました。
鳥取の日本酒にこんな物語があったなんて!あー、地酒ってホントに素晴らしいですね。
▲山崎さんご夫婦。気さくにお話をしてくださり楽しい時間を過ごさせていただきました。
▲とんがり屋根が特徴的な、山崎さんの作業小屋。見物に来る方もいらっしゃるとのことでちょっとした名所となっているのだとか。
山﨑さんと中川さん、互いが良いものを作り残していきたいという思いで繋がっていました。これからもずっとお二人の関係は続いていくのですね。