島根県の出西という片田舎に住む若者5人が、まっすぐな情熱で出西窯を創業したのは昭和2年のこと。
終戦後の混乱と虚無感の中で、何も持たない若者たちが選んだ焼き物づくりは生活の手段であった。
精神的支柱となる「民藝」と出会ったことは大きい。
が、不思議に思うのは、複数の、しかも同じ年頃の5人が半世紀以上も共同体を維持し、次世代へその思いをつないだことだ。
奇跡の共同体と感じるゆえんである。
企業組合から平成1年に株式会社に改組した出西窯代表の多々納真さんに、創業者のひとりでリーダー的存在であった弘光の息子としての心情や、未来への思いを伺った。
焼き物屋になる
昭和8年、父弘光と母桂子の長男として生まれた真さんは、幼いころからごく自然に「焼き物屋になれる」と思い、大学卒業後、何のためらいもなく出西窯に入った。
ところが、想像以上の高度な技術を必要とする出西窯の仕事は、毎日が自分との戦い。
やめようと思ったことも。自分の不器用さと才能のなさを思い知らされた。
3年間の研修期間が終わって給料をもらうようになると、創業者と自分との給料差が少ないことに携然とした。
50代の自分の姿をそこに見たのだ。
共同体としてのポリシーを前面に出しながらも実質的な代表として動き回っていた父の立場に、息子としては切ない感覚を覚えた。
毎日懸命に、一つでも多くつくる努力を繰り返しながら、真さんは共同体であり続けるための仕組みをも模索するようになった。
作り手の意識を変えた新しいシステム
五十個、百個単位で流通していた昔と違い、真さんが出西窯に入った頃の1回の注文数は10個程度。
平成元年に日本陶芸展で優秀作品賞を受賞してからは多少の直売も増え、10年に建てた「無自性館」で展示即売もできるようになった。
けれど、売り上げは横ばい。
軸轍の数も決まっているから作り手が倍増するはずもなく、このままでいけば下降線をたどりかねない。
どうすればいいか。
創業メンバーが万蔵で引退すると、真さんは考えてきたことを実行に移した。
今まで漠然としていたひとり一人の製作個数や種類、何がどこに需要があるかなどのデータ化である。
当然抵抗はあったが、つねに思い出したのは、「共同体のメンバーは家族だと思えばいい」という父の言葉だ。
その意味を個性が違う兄弟になぞらえ、「もたれ合うのではなく、それぞれできる範囲で精一杯のことをしてそれに見合った評価をすればいい」と考えた。
意識改革は難しかったが、データ化で互いの仕事が見えるようになると次第に不満は減り、反対に頑張りがいが増していく。
製造人数は同じでも毎年のように売り上げは伸びていき、メンバーへ還元されていった。
経営と広報·渉外の最前線に立って全国を飛び回る真さんも、陶工としての努力も決して怠らなかった。
出典:さんいんキラリ 夏秋号 No.42
< 暮らしを提案する「くらしのビレッジ」へつづく>
民藝の巨匠たちの指導のもと共同体的な民窯として創業。
いまや創業者の孫世代が中心となったプロフェッショナル集団で、現代の暮らしにあったシンプルな形とメリハリがきいた色彩の器は、新作民芸の旗手的存在です。